〔喜びへの自由〕
2015年10月8日(木)
私たちの喜びは、人生の「苦悩」に出会った時に喜びの限界があってはなりません、なぜなら人生の苦悩(あるいは私たちがそうだと思っているもの)も神から、喜ぶようにと呼びかけるその方から来ているからです。
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喜びへの私たちの心構えが、人生の「深淵」と見なさざるをえないと思っているものの中でも持ちこたえるかどうか、それが、人生の「高み」を見ることが許されていると思っているところで、喜びの真性がどのようにあるか、という問いにおける判断基準です。喜びへの心構えがそこで、耐え抜くことで真の従順であるなら、心構えはここでも喜ぶことであり、喜びへの自由も私たちに喜ぶことが容易なところでも存在します。人はたしかにここでも、人自身ではなく、神が人の真の喜びだと見なされるものに従うでしょう。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、539f。
私にとっての喜びが何であるのか、私自身はそれを知っているわけではありません。神さまがご存知です。
ですから私たち人間は、どのような中にあっても、神さまのみ心に委ねながらいつも待ち望む者でありたいと思います。そのような心構えでいたいと思います。
(祈り)
神さま、あなたが私のために用意していてくださる喜びを、私の喜びとすることができますように。