〔喜びへの自由〕
2015年10月6日(火)
喜びは、喜ば「せる」ことでだけ持つことができます、ということはつまり喜ばせようと心することでのみ、喜びへの意思を得ます。
生命は一人ひとりにとって独自のものですが、生命はまさにこのようなものとして、各人に対して「同胞」への彼の関係においてなされた贈り物でもあります。その人が ― 「私と共に喜んでください!」と ― 他者も(少なくとも一人のあるいはそれ以上の他者、多くの人びと、残りのすべての人の代表者として)「共に(喜んで)居合わせて」くれることを望まないとしたら、彼の喜びの性質は本当の喜びとしては少なくとも疑わしいでしょう。その人が他の人びとにたとえば、居合わせてほしくないなら、疑わしいどころではないでしょう。
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私が言わば他者の立場に立って、今あなたを喜ばせることは何だろうかと自問し、それから他ならぬそのことをよく考え、実行するということです。まさにここにこの事柄においてきわめて重要な諸決定が下り、最大の喜びが生ずるか、最も深い幻滅が起こってくることもありうるのです。二人での喜び、あるいは現実に「相互に喜ば」せようとする交わりでの喜びは、素晴らしい事柄であり、まさにそうなることに、現実の祝祭として成功した祝宴の神秘は基づいています。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、536f。
独り善がりの喜びは、真実に自分を喜ばせることにはなりません。独り善がりの喜びには、そのどこかに暗やみが潜んでいるのです。
相手の喜び、共同体の喜び、世界の喜びをよく考え実行するところに、自分自身の人生の喜び、真実の喜びがあるのです。
(祈り)
神さま、真実の喜びに生きる者に造り替えてください。