〔性的生活〕
2015年9月2日(水)
神の掟はまさにここでも「人間全体」を要求なさいます。
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肉体的生殖器と、したがって肉体的性生活そのもの、肉体的性的要求とそれだけ独自の、それで満足のゆく、意味のある行為として肉体的性交というものは、神の掟という光に当てると全くありえないのです。
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性と性関係は個人の勝手な道を進まず、何ら自分だけの決定をせず、決め込まず、支配せず、自分だけが全体になることなく、そうではなくて「人間の自由」の中に、男と女の自由に、彼らの出会いと共存の自由においてその本質を持つ、ということに心配りすべきでありましょう。
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神の掟は性的関係の否定も抑圧も要求しません。人はほかでもない神によって男と女として、それゆえ両者の間の出会いのために創られているのですから、どうしてそんなことがありましょうか。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、473f。
男女の出会いと、その性的な関係も、神さまの御手の中にあります。
人間はそれを喜び、また神さまのみ心の中での営みとしなければなりません。
自分勝手な、すなわち相手の自由を奪うことになるような出会いや性的な関係は神さまのみ心ではありません。
神さまは否定も抑圧もなさいません。否定や抑圧をするのは人間でしょう。人間の罪がそうするのです。神さまは私たちにまことの自由を与えてくださいました。
私たちは神さまのみ心を学び、神さまが喜んでくださる道を、喜びをもって歩みましょう。
(祈り)
神さま、あなたの与えてくださった自由を、自らの欲望を成すために利用するのではなく、あなたのみ心を成すために用いさせてください。