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発見と賜物としての同胞

〔同胞としての人間〕

2015年8月31日(月)

人びとの間の出会いにおいて出来事となるものについて、次のようなことが言えます。その時には相互の間で「発見」ができるようになるということです ― つまり一人の人が他者にとり本質的に重要であるという相互の認識に至ります。その時には、一人の人が他者にも唯一となり、一人の人は他者にもかけがえのないものとなるというパラドックスが生じます。その時にはそれゆえ相互的に選び選ばれることになります。その時にはお互いを、その人がいると気持ちが良く、その人がいないと全くやっていけない実体として肯定できます。その時には互いに、一人が他者の存在を、そして双方が、一緒に存在することが許されていることを、喜び合えます。まさにこの共存がその時は喜びになるからです。
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一人はまったく素朴に他者を「賜物として得た」のです。
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この贈られることと贈ることの中に、選びと選ばれること、「相互の肯定」、共通の喜び、まさに「この出会いの自由」の本質があります。
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その自由の中で、彼らは互いに息をつかせ合うことで、二人は息ができ、その自由の中で、彼らがそれほど近くあるのでまさに距離を保ちます。そしてまさに彼らは、距離を保つ術も心得ているから、非常に近くいるのです。
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そこで発見されるものも、隠されているものであり、創造主である神への信仰の他には、それを見つける何の鍵も存在しません。
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この他者の現存の必然性全体において ― 人間としての彼自らの一回性とかけがえのなさと彼自身の実体、彼自身の現実を発見するのです。
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自己自身であり、かつ自ら他者と共にいて自己自身であり、自ら他者と共にあるこの自由にこそ、人間性の本質はあり、そしてそこに生き、活動するのであります。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、468ff。

他者との距離が真実に近い者となるためには、そこに距離がなくてはなりません。距離を保つことのできない近さは、真実の近さではなく、それゆえ互いを破滅に導きます。
親子であっても、夫婦であっても、兄弟であっても、友人知人、牧師と信徒、信徒同士、あらゆる人間関係で、それが真実の出会いとなるために、お互いを生かす出会いとなるために、距離を保つ近さの出会いが必要です。
そのような出会いの実現のためには、創造主への信仰が鍵であり、それ以外の鍵はこの世に存在しません。

教会にはさまざまな方が来られますが、やってくる人たちはそれぞれさまざまな必要を持っておられます。教会は、ある意味でそれらの必要に応えなければならないところであり、牧師も応えたいと願っています。応えるためには、そこに真実の出会いが必要不可欠です。真実の出会いのポイントは、距離を保つ近さの出会いであり、お互いを生かす出会いですから、その出会いを通して自己を見つめ自己を変革していこうという勇気を持っているかいないかということです。
いたずらに相手を自分の欲望のために利用しようとしている人がこの世界にはいます。ある意味で人間はみんなそうなのだと思います。人間はみな罪人です。教会に来るきっかけや、あるいは来てしばらくはそのような醜い姿を露呈することでしょう。しかしやがてイエスさまに出会い、自分自身が神さまに愛されていることを知り、この神さまのみこころを大切にして生きていこう、洗礼を受けようと願う歩みの中で、上記のような勇気をいただきます。自己を変革していこうという勇気をいただきます。いろいろなことを誰か他人の責任にして生きる醜い生き方から、自己を見つめ、自分が罪人であることを知り、自分を神さまの前に悔い改め、すべてを神さまにゆだねて生きていこうとします。
そのような信仰の歩みをする人びとになっていただきたいと牧師は願っています。それがその人の真の幸福であることを牧師は知っています。

出会いの中に自由と喜びがあるかないか。その二つがないならば、そのような出会いはただ相手を自分のために利用しようとしているだけの出会いとなっているのです。それは真実の出会いではありません。

お互いを生かす真実の出会いとなるために、今日も主イエスさまがともにいてくださることを信じて、自由と喜びを見失わない出会いに生きたいと思います。

(祈り)
神さま、真実の出会いに生かしてください。


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