〔同胞としての人間〕
2015年8月30日(日)
出会いにおける本質は受動的な服従ではないのと同じように、また積極的な服従でもありえません。
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私が同胞と、いずれにせよ私自身を彼の中に再発見するつもりで、一緒にいようとする時以上に、ひどい思い違いすることがありうるでしょうか。
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同胞は、私に従属しないという仕方でのみ、私に必要なものとなります。私に従属するかのように私が彼を扱うなら、彼は私には属しません。ひとりよがりの偽造された共存が別々にあるようになっても、他者と私の間の出会いにおいて早かれ遅かれ相互の攻撃にあるいは双方の退却に至っても、怪しんではなりません。事柄はすでに発端で誤っており、実行経過においてもただこの失策行為にならざるをえないからです。「共にあること」において人間は「暴君でも奴隷でもなく」、同胞のその人も暴君でも奴隷でもありません、彼らは「道連れ、仲間、同志、戦友、助け手」であります。
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自由という風の中で、この風の中でのみ出会いは本当のものでありえます。道連れ同士は自由です。仲間は自由です。同志は自由です。戦友は自由です。助け手は自由です。彼らの間で出来事となるもの、それが、それだけが人間性です。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、467f。
人間性を失わせてしまうような出会いが、この世界の中にはある、とバルトは語ります。もし暴君のように、奴隷のように、その関係を矯正しようとするならば、それは人間性を失わせてしまう出会いである、というのです。このような出会いは、やがて相互の攻撃、相互の退却に至るのです。相互の攻撃、相互の退却に至っても怪しんではなりません。そもそも最初から、真実に共にあることにおける出会いではなかったからです。人間性を失ってしまうよりは、そのような出会いは早々に解消した方がよいのでしょう。
あらゆる人間関係の中で自由という風を見失わせてしまうような事態があるならば、即刻解消した方がよいのです。
(祈り)
神さま、出会いにおける自由の風を見失うことのないように助けてください。