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共にあることは隷属ではない

〔同胞としての人間〕

2015年8月29日(土)

概念の最高の意味での人間性の本質は、一人の人がいわば「他者に夢中になる」、彼自らの生活を、自らの使命と責任を放棄する、あるいは忘れて怠る、自らを他者に単に同化させる、他者の模倣に、他者の使命と責任を自分に生活圏にする、ということにはありません。

人は同胞に必要な属するものでありますが、同胞のものとはなりえず、同胞の「言いなりになること」はできません。人がそうすることができないのは、人が同胞をそうすることで、自分にとっての他者として見て認識するのではないからです。

彼は同胞に見たところ大変な敬意を持っていそうに見えますが、実はわずかな敬意しか示さないでしょう。彼は同胞にまさに見たところ溢れんばかりの熱意を振りかざしますが、実際には同胞の言うことを聞かないでしょう。彼は同胞をうんと近づいて見せて、その出会いを同胞との結合に歪曲しようとするでしょう。彼は同胞のところにしつこく押しかけ、他者の品位も力にも相応しくない一種の重荷となるでしょう。同胞を極めて深く侮辱することなくして、同胞に屈することはできません。

他者である彼が私から期待するものは、私が彼のあなたであることをやめる、従って私の彼とは異なっていることで彼から距離を置くことではありえないからです。彼が好み、その自由のままに私から欲するものは、私が彼と一緒にいることであります。しかし私が彼に夢中になり、彼の真の相対する者であることを止めるなら、彼から遠ざかることになります。彼が私を思い、求めるのは、私の一回性とかけがえのなさであり、独立した存在として生き歩んでいることであります。彼は、彼自身への単なる順応には、いわば単に彼にしがみついて存在しようとする生き方には、なんともしようがないのです。

私が、同胞にぶらさがるなら、彼から遠ざかることになります。彼はそんなことこそ好みません。その結果は、彼が私を結局(彼が私をそれほど活用できないことで)退けることになるでしょう。もはや出会いではないこのような出会いに恐れをなして、自分自身に引き戻るかあるいは全く私に刃向かってくるでしょう。

思い違いしないでください。同胞関係の放縦さということがあります。そこでは人間性に至るはずのこの関係が極めて非人間的になります。なぜならその際、その関係が二人の自由としてのみ成立し、持続しうるということが実現されないからです。他者の自由のために片方が不自由になるのではない、という事態が実現されないからです。

隷属はむろん不自由であります。私たちが他者に隷属するならば、その時はむろん私たち自身もはや本当に他者と共にいることを喜んではいません。そのとき、共にいることから、私自身が陥り、今や他者にも負わせる強制が生じたのです。このような強制的な、私から強いられた共存において、私が結局は ― 彼にあまりに近寄り過ぎて ― まず彼を侮った後では、私は自らを根底において侮り、他者からも侮られるだけであります。

人間性はそれゆえ、この共存で私が全く自分を失うことなく、自己を持ち続ける、その時にだけ共存の実現なのであります、それはまさに他者と一緒に私自身の命を生き、自らの使命と責任に気づき、従って彼への距離を保ち蹂躙しない時であります。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、465f。

今回は、どこかを切り取ることができなかったので全文を拾うこととなりました。
自分を失うほどに、相手に近寄り過ぎ、相手に隷属するような関係は、人間的な出会いとはならない、ということです。そういことを強要する人はこの世界に、割合たくさんおられるようです。
自分の思うように相手を操り利用できないとなると、途端に攻撃してくるような人がおられます。そのような人を何とかしてあげたいと願うのですが、関わりだすと途端に自分は病気であるというふうに隠れ蓑を使うのです。そしてそれがまた攻撃の材料となります。
人間には限界がありますので、このような偽物の出会いからは、できるだけ距離を持つようにしなければなりません。

(祈り)
神さま、あなたのみこころを求めさせてください。


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