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神の証しへの逃走

〔証人としてのキリスト者〕

2015年8月20日(木)

証人であるキリスト者は「聖書の証人たちの弟子」です。しかし、真の証人として私たちにできることは、ここでひたすら弟子となり、弟子であり、ずっとあり続けることです。・・・ここで聖書の証人のこの鍛錬の場で、何が学ばなければならないか。私はそれを論題で「逃走」という形象で表現しました。逃走はいずれにしても極めて生き生きした動きであります。
逃走は極めて積極的な概念です!
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自らの人間の言葉の「愚かさ」に背を向けなければなりません。
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私たちはまさに、自分の言葉の「知恵」から逃れなければなりません。
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知恵と愚かさのこの「混合」、それが私たち人間であるからです。
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パウロは言っています。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けて!」(フィリピの信徒への手紙3章13節)。
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私たちの知恵と愚かさは、すでに私たちが逃れなければならないものとなってしまっているのか、神の知恵と愚かさは私たちが逃れ込むことが許される砦になっているのか、この二つの問いの前に私たちは皆立っています。ここに私たちが神の証人であるか否かの決定がなされます。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、452f。

私たち人間は、知恵と愚かさの混合です。知恵と愚かさが混ざり合ったものです。
その人間の知恵と愚かさから「逃亡」し、神さまの知恵と愚かさに逃げ込むこと、それが証し人としての生き方です。

罪人である私たちはいかに自分の知恵と愚かさにとどまり続けてしまっているか。

神さまの知恵と愚かさに、いつも逃げ込む積極的な生き方をさせていただきましょう。

(祈り)
神さま、あなたの知恵と愚かさに逃げ込む喜びに生かせてください。


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