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神の証しへの希望

〔証人としてのキリスト者〕

2015年8月19日(水)

私が不誠実であれば、そして私は不誠実なのですが―まさに真の証人はそれを知っており、それを言います―それでもやはり神は誠実であり続け、その約束を撤回なさらず、それを繰り返し真実なものとなさいます。
・・・
聖餐は私たちに、キリストが全く私たちのために歩み入ってこられ、御体と御血でもって永遠の命に導こうと私たちに馳走してくださること、完全にこの一つのことを言おうとしています。彼キリストが! 聖餐は希望と将来の聖礼典であります。希望を持つという意味は、私たちの悪い行為を良いものに直してくださる方として、イエス・キリストを自分の前に持つことです。この途上に在る人、聖餐を受けに行く人、キリストは私のために! というこの将来に向かって歩んでいく人、その人は証人であり続けるでしょう。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、450ff。

私たちの悪い行為を良いものに直してくださる方として、イエス・キリストを自分の前に持つこと、それが希望をもつということです。

自分が変えられるという喜び。それがキリスト者の証し人としての生き方です。
神さまの赦しの前に開き直る人がいますが、それは信仰に生きる姿勢ではありません。
つねに自分が変えられるのです。そのことに希望を持つ。そうしてくださるイエスさまに希望を持つということが、キリスト者の生き方の基本にあります。

(祈り)
神さま、罪人である私を造りかえてください。


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