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神の証しに対する畏敬の念

〔証人としてのキリスト者〕

2015年8月18日(火)

さて実際に人間が神についての証言をするとは、どのようにして起こるのでしょうか。この問いへの答えを私は「畏敬」という語に要約したい。畏敬とは自分の主に対する僕(しもべ)の、自らの計画を実行するのではなく命令を待たなければならない人の姿勢であります。身近な概念、尊敬という概念を思い起こしてください。尊敬・リスペクトはラテン語のレスピケーレ(目を向ける)という語から来ています。神が命じられたことに、人間が「目を向ける」ところで証言がなされます。
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ヨハネの偉大さは、彼が自分自身から離れ、この他者を指し示すことであります。
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私たちが自らの理念をテーマにするときはいつも、その証言はもはや純粋ではなく、そこに立っているのは小哲学者かあるいは小神学者かもしれず、その人は証言を非常に重々しく思っていますが、聖書の意味では証人ではありません。
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私たちは自らの考えと信念をも述べうるのですが、ここで述べられるべき一切は聖書の原文という篩(ふるい)を通らなくてはなりません。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、449f。

畏敬の念。神さまへの畏敬の念のない証しは証しではありません。
自分の考え、自分の主張、自分の理念を話すことは証しではありません。
つねに聖書のふるいを通らなければなりません。
そうして神さまご自身に目を向け、神さまご自身を指し示すこと。それが証しです。
畏敬の念とは、つねに聖書のふるいを通り、神さまに目を向け、神さまを指し示すことです。

(祈り)
神さま、あなたへの畏敬の念を確かにしてください。


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