〔証人としてのキリスト者〕
2015年8月17日(月)
どのようにして人は証人になるのか。私はその答を聖書に従いこの言葉「感謝の念」に要約しました。
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感謝の念は、一切の勝手な開始への、人が自らに神の証人たる素質と能力ありとする一切の企てへの、反対であります。
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この感謝の念は聖書によれば、具体的な感謝の念でなければなりません。人が天を見上げるだけでなく、地上にも、自分の生活にも、人の歴史の現実にも神の証しをたしかに見出す感謝です。
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一人の証人の存在の始めに立つ大きな問いは、あなたが出かけて行き、他の人びとに何かを言う前に、何があなた自身に言われているか、ということです。イエス・キリストの証人の生活は、実に神がすでに与えてくださった証しに対する感謝の念でもって始まるなら、この世にこの一つとは別なことを言おうとは考えられません。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、447ff。
感謝の念。
証しとは、感謝の念です。
感謝の念は、自分自身の内に神さまの証人として素質や能力があるのだ、とすること、またそれを土台とした取り組みの一切に反対することです。
自分自身の中に神さまの証人としての素質や能力があるとするならば、それは神さまへの感謝の念を生み出しているのではなく、自分自身を称賛しているだけでしょう。それは証しではありません。
ただ具体的な生活の中に目を向け、神さまへの感謝の念に生きること。それこそ証しです。
(祈り)
神さま、あなたへの感謝の念に生かしてください。