〔証人としてのキリスト者〕
2015年8月16日(日)
聖書で、本来証しする人は、これこれの人間の名が挙げられるのではなく、紛れもない神ご自身であります。
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人間は被造物であり、死ぬ定めにあり、罪人であり、神に背いてしまいました。どうして人は神の証人に適しているというのでしょうか。神にとって神ご自身が語らなければならず、神にとって神だけで十分です。
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私は神の御手にある有用な道具ではありませんが、それにもかかわらず神が私をお用いになるなら、その時には奇跡が生じます。
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私たちが使徒言行録1章8節「あなたがたはわたしの証人となる」のような箇所を理解できるのは、そこに神の不可解にも腰を低くなさることを理解する時だけであります。自らの神聖さと慈愛の中におられるこの神、遠くにおられるこの神が、私たちに非常に近寄ってこられるので、「あなたがたはわたしの証人となる」、このことが適用される人びとが存在するのです。
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神が証しされ、人がお手伝いをする。神は証人であられ、神の慈しみという理解し難い奇跡を通じて、私は神ご自身の証しの証人であることを許していただいて、その任に就けられております。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、446f。
自分自身が本来神さまを証しするということ。自分というものがその任にどれほどふさわしくないかを分かっている者だけが神さまを証しすることができます。
(祈り)
神さま、証し人として立てられることの奇跡を覚えさせてください。