〔教会共同体と市民共同体〕
2015年8月1日(土)
キリスト教会は、「失われた」ものを探して救うために、人の子がこの世に来られたことの証人です。このことは教会にとって、教会が―あらゆる偽りの不偏不党から解き放たれて―政治的領域においても特に下の方をみることを必ず意味します。
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キリスト教会は、恵みの御言により、神の愛の霊によって、「自由において神の子ら」であれと召命されている人びとの共同体です。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、423f。
「偽りの不偏不党」から「解き放たれて」いるのがキリスト教会です。
何が何でも平等でなければならない、ということが、かえって不平等と生み出すことがあります。教会はそのようなことから自由にされています。
ですから、真実に弱者に目を向けることができるのでしょう。
また教会は互いの自由を大切に考えています。「成熟した市民」「成熟した人間」として存在するように期待します。それは期待であってそれ以上でもそれ以下でもあります。期待以上であったり以下であったりしたならば、自由でなくなってしまいます。
(祈り)
神さま、弱者に目を向けるあなたの愛を学ばせてください。