〔教会共同体と市民共同体〕
2015年7月31日(金)
キリスト教会は、憐れみを人間にかけるために、このような「人間」としてそれゆえ「その人の隣人」になってくださった永遠の神を認識することを基として、建てられています。(ルカ10章36,37節)。
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キリスト教会は、神の正当性の、すなわち神がイエス・キリストにおいて根源的な「人間への神の権利」と、それと共に、罪と死に対する「人間自身の権利」を立て固定してくださった行動の証人であります。
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教会の政策は必ずや、国家が自らの存在のこの根本精神を、すなわち、人間の限界と人間の保護を、法の達成と法の設定により真剣に考えるよう迫るでしょう。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、421f。
教会は何を基として建てられているのでしょうか。教会の基、すなわち基礎、土台とはいったい何でしょうか。バルトは、「永遠の神を認識すること」であると語ります。
その「永遠の神」とはいったいどのような神であるのか。それは人間に憐れみをかけてくださる神であり、憐れみをかけるために、人間の隣人になって下さった神です。
このような神さまを認識することが教会の土台です。これを見失ってしまうならばもはや教会ではありません。またこれを見失ってしまった教会はこの世にあって、世の光、地の塩としての力を失っています。
このように神さまを認識することを基とする教会は、国家に対して世の光、地の塩としての力を示します。
それはどのようにして示すのか。国家が「人間の限界と人間の保護」を「法の達成と法の設定によって真剣に考えるように」迫るのです。国家がそのように「人間の限界と人間の保護」を「考える」ことこそ、国家の存在の根本精神です。
教会は、国家がそのことを真剣に考えてくれるように、迫るのです。
(祈り)
神さま、あなたは私たち罪人を憐れんでくださいました。その愛をあなたから教えていただいた私たちは、この世の国に対して、人間を大切にするように迫る役割をいただいています。どうかそのように生きる力を与えてください。