〔国家権力に対する抵抗〕
2015年7月18日(土)
これこれの「権力者たち」に対して、私たちは神に対して「不従順」なばかりに、政治的秩序に対して不従順のつもりでいて、実際は従順だということもあるでしょう。
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その時明らかになるのは、神に対する不従順であってこの政府に従順であるか、あるいは神に従順であってこの政府には不従順であるか、私たちはそのいずれかを選ぶしかないということでしょう。
その時、もはや人間にではなく、神には聞き従う必要はなくなるのでしょうか。
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反問が生じます。私たちはキリスト者として「力」の行使に加担することができ、許されるのでしょうか。
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私たちは政治的秩序に対し、神の掟に従って従順であることで、力の行使にいずれにせよ加えられています。
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少なくとも暴力的抵抗という最後の非常手段を免れることができるよう、私たちは祈ることが許され、祈るべきです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、401f。
神さまに従順であるのか、それともこの世の権力者に従順であるのか。その選択の厳しさを経験するときも私たちは祈ります。できうる限り「暴力的抵抗という最後の非常手段」を取らないでよいように、祈ります。祈らないのはキリスト者であるとは言えません。
いずれにせよ、この世に生きているということは、そういう選択を迫られるということです。
世の終りまでともにいると約束してくださったイエスさまを見上げて、祈る者とならせていただきましょう。
(祈り)
神さま、いかなるときもあなたに祈ることができるように助けてください。