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人間は病院にいる

〔人間とは何か〕

2015年7月13日(月)

私たちは皆、何かの一点で出会って、癒しを求めて叫びます。私たちは皆病院にいるわけです。けれども、まさにそのことが君自らについて知ることのできる最上のことだと信じなさい! それこそが神の癒しの恵みだということを信じなさい。もし人生の労苦が何かの途上で君のところに来るならば、君はそれを忘れたり覆うことはできず、ひたすら真実がそこにあると受けとめなさい。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、392ff。

自分の中にある「病巣」に気づかない、気づけない、気づこうとしない、うっすらと気づいているけれども認めようとしない、そうして自分の人生の諸問題の原因をすべて自分以外の人、もの、ことのせいにしている、それはまさに癒し難い人間の現実です。
自分の中の病巣に気づくこと。その気づきが自分を癒すような気づきであること。
それができるのは、自分以外には存在しません。残念ながら誰かが気づくことはないのです。あるいは誰かが気づいたとしても、それは自分の癒しには結びつかないのです。
しかし、ひとたび自分の病巣に気づき、気づこうとし、認めるならば、癒しが始まります。自分の病巣を認めそれと戦おうとする人に聖書は、また教会は手を差し伸べることができます。しかし常に誰かのせいにしている人には手を差し伸べたいと願いつつもできないのです。自分の病巣に気づくことは、まさに神さまのみわざなのです。

(祈り)
神さま、どうか罪人である私を癒してください。


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