〔人間とは何か〕
2015年7月12日(日)
教会はいずれにせよキリスト教の福音を通じて自らに置かれている不人気な使命から遠ざかることはできないでしょう。つまり今日も、人間の存在を脅かす危機は、繰り返し認められるよりも大きい、ずっと大きいということに言及する使命があります。現実の人間は自分自身によって、限りなく、癒し難く危険に曝されています。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、391f。
教会は人間の罪を指摘します。決して教科以外の人びとが罪びとであって、自分たちが罪びとではないなどと考えているからではありません。自分たちこそ罪人であることを知っています。あるいは自分たちこそ罪人であることを学び続けています。
自分たちは、自分自身によって、限りなく、癒し難く危険に曝されていることを学んでいます。その事実を知れば知るほど、神さまの愛の深さを知るのです。
キリスト者が、キリスト者でない人びとから「それでもクリスチャンか」「偽善者だ」などと非難されることがあるでしょう。その時、「それでもクリスチャンか」「偽善者だ」と非難されるような者の為にイエスさまは十字架にかかって下さったことを知り、その愛の大きさを知らされます。
人びとから非難され、罵られ、迫害されるとき、それが「正義を行っているのに、そのような目にあわされる」というのではなく、まさに「ご指摘の通りです」といわざるを得ないような自分自身であることを、だれよりも自分が知っている状況の中にあって、「ああ、このような私の為にキリストは十字架にかかって下さったのだ」「イエスさまは、そのようなときに一番そば近くにいて、共にその非難を受けていてくださる」と覚えることができ、感謝があふれてきます。
この世からの非難に曝されるとき、「その通りなんですよ、このような者のためにイエスさまは十字架にかかって下さったのです、感謝です」と「暖簾に腕押し」で、私たちは胸を張って生きることができるのです。
(祈り)
神さま、常に非難される側に立ってくださるあなたの愛を感謝します。