〔東西間の教会〕
2015年6月24日(水)
国家社会主義と冷静に比較すると、キリスト教会がロシア・共産主義の東独に対しても、国家社会主義に対するのと同じ態度をとる原因はないということが判ります。
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キリスト教世界が不信仰の人びとに対して、彼らの侮辱、圧制、迫害に抗議し政治闘争行動への呼びかけに応えなければならないとは、私には初耳です。ここで大事なのは、全く別なことでして、「聖徒たちの忍耐と信仰」、喜ばしく耐え抜くこと、びくともしない信仰告白です。
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いったいどこに、「キリスト教的西欧」ということを語り、この西欧に対して突如霊的、政治的そしていつか軍事的十字軍へと呼びかけて助けようとするような、そんな資格が私たちにあるのでしょうか。西欧の教会が不信心な東欧に―いや、何よりも西欧自らに対して負うべき責任は、十字軍ではなく、十字架の言葉です。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、363ff。
さまざまなイデオロギー、政治的主張、制度が、この世界に存在します。イエスさまを信じる私たちはそれらにどのように対応していくべきなのでしょうか。
バルトは、私たちの負うべき責任は、十字軍ではなく十字架の言葉である、と語ります。それは攻撃ではなく、喜ばしく耐え抜くこと、です。
(祈り)
神さま、どのような事態の中にも、喜ばしく耐え抜く信仰を与えてください。