〔礼拝〕
2015年6月13日(土)
聖礼典の、特に聖餐の教義と規則だけが正しいとされるところで、たしかに教会の礼拝の全体が正しいものとなるであろうし、必ずなるに違いない、と!
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教会の礼拝は従って神的活動です。礼拝は第一に、もともと神的なものです―ようやく次に、二次的に、派生的に人の活動です。人がその際なすべき、なさなければならないことは奉仕です。この奉仕が礼拝であるということ、それを創り出すのは人ではなく、神がまったくお一人でなさるのです。人は完全に神の意思の奉仕者であり実行者に過ぎません。
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イエス・キリストにおいて現れた神の恩寵を観想すること
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イエス・キリストは、私たちがいくら聴聞してもし過ぎることのない真理であります。
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礼拝を捧げることで、お互いへの、教会への、神の言への信仰を告白するのです。教会の礼拝の第一の基盤は私たちの外に、イエス・キリストの臨場に、そのお働きの中にあります。
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教会においてこの神意とこの目標が見えるようになります。それゆえキリストは教会を造り維持なさいます。それゆえ、最終的にただそれゆえに、教会の礼拝は不可欠のものなのです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、345f。
礼拝において、神さまがなしてくださる祝福のみわざを期待し喜び感謝する者でありたいと思います。
(祈り)
神さま、礼拝におけるあなたの御業に感謝します。