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すべての人びと

〔神の恵みの選び〕

「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。
(ローマの信徒への手紙11章32節)
2015年6月12日(金)

すべての人。まさにそれは、神がイエス・キリストにおいて憐れもうとし、憐れむであろうすべての人なので、それではまるで、いかなる拒否にも脅かされない選ばれた人びと、いかなる選びも約束されていない見捨てられた人びとが存在するかのようですが、その考えは確実に除外されています。誰がここで自らをあるいは他者を、確実だとかあるいは絶望的だとか思っていいでしょうか。
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イエス・キリストへの信仰にあって、私たちの拒否が決定され、当然とされ、実際に実行されているという認識から私たちは逃れることはできないでしょう。「・・・それは、すべての人を憐れむためだったのです」。これが「約束」であります。
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神にとってご自身の御子が、いや神ご自身が尊くて、ご自身その荘厳の高みから下りてくること、否まさにその点に神の荘厳さの高みを啓示することはおできにならぬ、などということはないのです。
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脅かしは私たちを脅かせはするが、もはや私たちを襲うことはありえません。

神はーイエス・キリストにおける神は―このような脅かしと約束によってこの二重の、しかもそれほど似てはいない救済の予定をなさって、私たちと共なる途上にあり、私たちを御手で支えておられるということ、これこそが、恵みの選びを認識するよう私たちに求められる洞察であります。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、343f。

この場合「二重」というのは、ある人が「滅び」か「救い」かどちらかに定められているであるという二重ではなく、ある人の上に「滅び」が定められ脅かしがあり、その脅かしによってその人の上に「救い」が定められている、という二重のような感じです。
私にもこの救いが宣べ伝えられました。感謝します。まだ知らない多くの方にお伝えしたいと思います。

この救いが「すべての人」の上にある、とバルトは語っているのですから、いわゆる二重予定を否定する人の主張が、的外れであることがわかります。

それにしても、カルヴァン派の二重予定説とアルミニウス主義とが対極にあるというのですが、アルミニウス主義が批判するカルバンの二重予定説は決してカルヴァンが主張したものとは違うようです。双方によく耳を傾けてみると結局同じことを言っているような気になります。

いずれにせよ、聖書は救われる人と救われない人がいるということを前提に人びとをとらえなさい、などといってはいませんし、バルトもそのように語ってはいないようです。だいたいカルヴァンやバルトをちっとも読んだことのない人がカルヴァンやバルトを批判するのですから困ったことです。

私たちはただの人間なのですから、謙虚になって心を広くして、さまざまな方の考えに耳を傾け研鑽を積み上げるべきでしょう。そうでないと裸の王様になってしまいます。

(祈り)
神さま、あなたの救いの御業を感謝します。


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