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私たちの拒否は取り消された

〔神の恵みの選び〕

2015年6月10日(水)

神の聖なる義は、滅びに定められた集団を神が永遠に拒否されることにあります。
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神への信仰においてその拒否に然りを言われたのです。
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神の選ばれた人が信仰において拒否を肯定し引き受けることで、私たちの拒否としてのそれは消されます。
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私たちの拒否を私たちから取り除いてご自身に引き受けられ、従って御子にその重荷を負わせ、御子の死においてその拒否をただ一気に片付けておしまいになるのは正しいのかと、私たちは神に異論を唱えていいのでしょうか。
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そもそもなぜ私たちは神に対して、イエス・キリストの復活において明らかにされたこのキリストのずっと風変わりな義を反駁しないのでしょう。私たちの功績なしで、功績に反して、私たちを見捨てず、むしろ引き受けてくださる風変わりな義を、なぜ私たちはここで不正について語らないのでしょうか。私たちは「神の最高の義」、つまり私たちに慈悲深い神の自由を受け入れることで、明らかに、神がゲツセマネで、そしてゴルゴタでイエス・キリストを扱ったのとはまったくちがって私たちを扱う、神の自由の正しさを認めるのです。
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私たちは本当に私たちの拒否を知るためには、明らかに自らの贖罪と義認、従ってイエス・キリストにおける自らの選びを熟知していなければなりません。
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私たち自身へのあるいは他の人びとへの一切の絶望は、私たちの拒否を決して私たちに分からせはしないでしょう。拒否が「取り消された」のを見るところでのみ、私たちは拒否を実際に見ます。しかし拒否が取り消されたのを見るとこで、そこで私たちは拒否を「実際に」見ます。そこには神の自由な、まさにその自由において正当な決定に対して、何ら回避も反抗も存在しません。

神の恵みの選びを考えることによって、慰められる者だけが、その神秘に対する恐れを知っています。でもその神秘に対する「恐れ」なしには、恵みの選びを考えることにより慰められることはありえません。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、339f。

私たちは自分の罪を、そしてその罪が審かれなければならない重大なものであることを、正面から知り受け入れることができません。それほどまでに罪人なのです。
しかしイエスさまが、神さまからの拒否を受け入れられたこと、その御業である十字架と復活において、その贖罪の業を信じることにおいて、そして私たちへの拒否が取り消されたのを見るとこでのみ、私たちへの拒否を見ることができるのです。

そこで見るのは、神さまの恵みの選びです。そのような御業の前に、私たちはただ神さまへの恐れをいだきます。そしてその恐れは、深い慰めを生み出します。
深い慰めをまだいただいていないとすれば、それはこの「恐れ」を知らないからです。

(祈り)
神さま、あなたの愛のみわざをまえに、ただ畏れます。慰めを感謝します。


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