「青銅の蛇」について

毎年花の日訪問で、教会学校の子どもたちと一緒に、近くの消防署をお訪ねします。そのとき救急車のマークの中にこの「青銅の蛇」を発見します。これは旧約聖書・民数記21章にしるされている出来事から、癒しの象徴的なものとして、救急車に記されるようになりました。

この「青銅に蛇」については、新聖書辞典には以下のように記されています。

「イスラエルの民が荒野で、神とモーセに逆らい、燃える蛇(毒蛇)にかまれた時、主はモーセに青銅の蛇を作るように命じられた。旗ざおの上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって、民は生きることができた(民21:4‐9)。これは周辺民族の蛇信仰から出たものではなく、また青銅の蛇にいやす力があったわけでもない。神が約束されたいやしのことばに信頼して従う者がいやされたのである。本来この蛇はこの荒野の事件においてのみ意味があったと思われるが、その後数百年間大切に保存されたらしい。ヒゼキヤの時代には完全に偶像崇拝の対象となっていたが(Ⅱ列18:4)、それは神への真の信仰と偶像崇拝との違いを見失ってしまうほど微妙なものであったことを示している。」

神さまがいやしてくださったことの記念として、青銅の蛇、を保存したのですが、それを人間は偶像礼拝の対象としてしまったということです。そうすると偶像礼拝というのは、像そのものが問題なのではなく、常に目に見えるものに頼ろうとする人間の罪が問題であるのではないかと思えてきます。

祝福の体験は、それはそれでたいへん尊いことなのですが、そしてそのような祝福を忘れずに、恵みを数えて歩むことは大切なことなのですが、それを偶像化してしまう危険も覚えていなければならないということでしょう。


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