受難週を過ごしつつ

死と復活は別の出来事ではなく、唯一の出来事であり、同じ神秘の二つの面であるということです。

『信仰に生きる―典礼歴に沿って』、北村善朗、「主の復活」129ページ

 

復活祭を指す言葉は、英語、ドイツ語、ポーランド語以外のヨーロッパ言語においては、すべてギリシャ語のパスカ(過越)に由来しており、モーセによる出エジプトの出来事、脱出、過越からきています。このパスカは、過越と訳されているように、ある状態から別の状態へ移行していくという意味であり、その動きを表すダイナミックな概念です。

前掲書、130ページ

 

復活されたイエスと出会うためには、イエスが罪となって死に、陰府に降り、そこを通っていかれたということを理解しなければなりません。

前掲書、134ページ

 

私たちの人生は山あり谷ありです。そこには喜びもありますが、挫折、苦しみ、悲しみ、罪があります。わたしたちがイエスの死と復活を信じるとき、わたしたちは日々の生活の中で、イエスの過越の歩みに入れていただくことになります。わたしたちもイエスと共に過越の道を通らなければなりません。しかし、その道はイエスがわたしと共に日々歩んでくださる道であり、新たないのちへとつながっています。その過越の歩みが、人間として生きることの真の意味を啓示し、人生において最も大切なことをわたしたちに知らせてくれるのです。それはわたしたちにとって大きな喜びであり、希望となります。

前掲書、136ページ

今年2015年の復活祭は4月5日、その前週である今週は受難週となり、NHK「古楽の楽しみ」からも受難曲が流れています。わたしたちの教会でも2日の木曜日(聖木曜日)の夜には、オルガンコンサートと称して、受難の主の足跡をたどり、コンサート後聖餐式を行いました。

復活祭は、受難週そして4旬節とセットで迎えなければ、その意味が分からないということでしょう。夜の暗闇が深ければ深いほど朝日の輝きは明るく輝きます。自らの罪の深さ、この世界の罪の深さ、イエスさまが負われた十字架の重たさ、を学びつつ、復活の希望をあらたにしましょう。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: