使徒の働き1章の後半に使徒の補欠選挙が行われています。イスカリオテのユダの欠員を補充するために「バルサバと呼ばれ別名ユストというヨセフ」と「マッテヤ」の二人が立てられますが、くじによって一人に絞られます。初代教会の皆さんは使徒が12人であるということにこだわっています。しかしそうかと思うと、使徒の働きの9章以降でパウロ(サウロ)が救われ、かれは自分のことを「使徒パウロ」と語りはじめます。ここで使徒は13人になってしまいました。あれだけ12という数字にこだわったのに、パウロの登場で13になってしまいました。いったいどういうことなのでしょうか。
榊原先生が使徒の働きの講解説教集の中で次のように語っておられます。
条件を満たす候補者は二人いたのです。二人いたのならば、二人共に使徒にすればよかったのじゃないか。
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あるいは、今度は逆に、何もこんなに急がなくても、神様の御導きに任せておけば、もう程なくしてサウロまた名をパウロという使徒がちゃんと生まれるんですね。
実はこの後、使徒言行録は12章2節までまいりますと、ヘロデ・アグリッパ一世の迫害によってゼベダイの子ヤコブという最古参の使徒が剣で殺されます。けれども、この最古参の使徒が殉教を遂げた時に、教会は後釜を選ぼうとは、もうしなかったのです。そのようにして、使徒たちはこの後、どんどんと殉教の死を遂げて減って生きました。
つまり、くじを引いてでも聖霊の降る前に十二人の使徒団をちゃんと再建しておきたいというのは、あくまでも、聖霊の降るのを待ち、それによって教会が発足する時のために、どうしても打たなくてはならない緊急な対策だったのですね。聖霊の力をいただいてキリストの体なる教会がこの世に正式に発足する時、その教会は十二使徒で出来ているべきだ、これが本当の理由です。榊原康夫、『使徒言行録講解1 1~3章』、教文館、2012年7月10日発行。
12にこだわったのは、まもなくご聖霊さまが降ることによって出発する「教会」が新しいイスラエル12部族、つまり旧約聖書に語られてきた神の国の成就である、ということを明らかにするための備えだったということです。
この12人の条件は
ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。
使徒の働き1章21~22節(新改訳聖書より)
ということで、イエスさまの生き証人であり、復活の証人であるということです。
一方時代が進み教会が前進していく中で、新しい使徒パウロが登場します。かれは手紙の中で再三自分のことを「使徒である」と公言しています。くどいほど公言しているのは、やはり教会の中でパウロの使徒職について異論を持つ者がいたということでしょう。パウロは生き証人でもないし、いわゆる十字架の後、天にあげられるまでの間の復活されたイエスさまに出会ったわけではありません。
しかし使徒の働き9章において彼は彼なりに、復活されたイエスさまに出会っています。ここに12使徒とは違う新しい時代のイエスさまとのお出会いの道が開かれています。パルロはコリント人への手紙で次のように語っています。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
コリント人への手紙 第1 15章’~10節(新改訳聖書より)
この新しい時代のイエスさまとのお出会いの道に私たちも生かされているのです。
ですから私たちもイエスさまとお出会いをし、パウロのように神さまに遣わされた者としてこの世界に派遣されて行くのです。