,

われわれはあまりにも高慢になってしまっているのではないか

〔飼葉桶のかたわらで〕

2014年12月26日(金)

「ひとりのもどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれにあたえられた。」(イザヤ書9:6から)

人間の力による努力や、業績をはずかしめるために、一人の子供が世界史の中央に置かれた。
・・・
われわれはこの「みどりご」に、どのように出会おうとするのであろうか。
われわれの手は日々の労働のためにあまりにも堅くなってしまい、あまりにも誇りに満ちたものとなってしまっているため、この子供を見て祈るために手を合わせることができなくなってしまっているのではないか。
われわれの頭は、多くの困難な問題を抱えこみ、その問題を解くことによってあまりにも高慢になってしまっているため、われわれはこの奇跡そのものである子供の前で謙遜にひざをかがめることができなくなってしまっているのではないか。
われわれは、自分のさまざまな努力や、業績、重要な事柄に気を奪われすぎるために、羊飼いや東方の博士たちとともに、飼葉桶の中の神の子のまえにひざまずき、この子供を見てわれわれの生全体が成就したのだということを感謝をもって認識することができなくなってしまっているのではないか。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、633ff。

心の貧しい者の幸いを忘れてしまって、自分の努力や業績をいたずらに誇ろうとする生き空から解放するために、神さまは救いのしるしとしてみどりごを与えてくださいました。
弱く、小さく、貧しいこのみどりごの前にひざまずくことができるかどうかが、信仰に生きるかどうかの分かれ道です。みどりごの前にひざまずく者だけが、真実の神さまを愛し、自分を愛するように隣人を愛する道に生きることができます。
それ以外の道は、みな偶像礼拝の道です。
偶像礼拝はただ像を拝まないということではなく、みどりごの前にひざまずこうとしないことです。自分も含めて今日の教会に何と偶像礼拝者の多いことかと思います。

(祈り)
神さま、みどりごとなってくださったあなたの前にひざまずくことができますように。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: