〔飼葉桶のかたわらで〕
2014年12月24日(水)
ベツレヘムの馬小屋の中の飼葉桶のかたわらには、聖職者や神学者はひとりもいなかった。しかしながら、あらゆるキリスト教神学は、神が人間になったというこの「奇跡の中の奇跡」に、その根源を持つのである。
・・・
神学の課題が、神に関する秘密を解き、それを平板な、当たり前の人間的経験や、理性の知恵にまで引き下げることだと考える人がいるとしたら、その人は何と愚かであろうか。神学の課題は、決してそのようなことではなく、むしろ、神の奇跡を奇跡として確認し、神の秘密をまさに神の秘密として把握し、それを守り、それに栄光を帰することなのである。それこそが神学の職務である。
・・・
古代のキリスト論は、実際ベツレヘムの飼葉桶のかたわらで成立した。風雨にさらされてぼろぼろになったこの飼葉桶には、クリスマスの輝きがある。それを知ることのできる人は、たちまちそれに心を奪われるであろう。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、630f。
進化論に対抗して創造論を科学の見地で証明しようとする人たちがいます。それはそれで貴重な取り組みなのだと思います。しかしそのような取り組みは果たしてボンヘッファーのいうように「ぼろぼろになった飼葉桶」の「クリスマスの輝き」を輝き出すことになるのか、少なからず疑問である、ということでしょう。
紅海が二つに分かれたこと、イエスさまが水の上を歩かれたこと、などなど、おおよそ奇跡と呼ばれていることを、科学で証明しようとする試みは、神さまの奇跡を人間の知恵に引きずりおろすことであって、そのような試みによって聖書の信仰が生まれることはないのです。
神さまが人間になってくださったという奇跡。それは人間の知恵や感覚、経験の外からやって来て下さったということです。ですから私たちは、私たちの小さな頭の中に神さまを押し込めるのではなく、私たちの頭よりもはるかに大きなお方である神さまを仰ぎ見る者でありたいと思います。
(祈り)
神さま、飼葉桶のクリスマスの輝きを教えてください。そうしてあなたを仰ぎ見させてください。