〔主の道を備えよ〕
2014年12月13日(土)
道備えをする場合に大切なことは、目に見える世界への具体的な介入がなされるかどうかであり、すべては、キリストのために道を備えるという行為が「霊的な現実」となるかどうかにかかっているのである。なぜなら、この世の現状の改革が最終的な問題なのでは決してなく、キリストが来ることこそが問題なのだからである。ただ「霊的な道備え」だけが、主の恵みみ満ちた到来のための道備えとなることができるであろう。それだからこそ、人々がイエス・キリストを迎え入れるための準備として、今ここで、しなければならない目に見える行為は、来るべき主に対する「謙遜に満ちた行為」、すなわち「悔改めの行為」でなければならないのである。道備えとは、悔改めを意味するのである(マタイ:3:1~3)。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、612ff。
救いは主の一方的な恵みによってやって来ます。
その恵みがやって来るために道を備えることは大切なことです。
何が道備えとなるのか。悔改めの行為が道備えとなるのです。
なぜ神さまの恵みがやってこないのか。妨げるものがあるとすれば、悔改めがなされていないということ、謙遜に満ちた悔改めの行為がなされていないということではないでしょうか。
(祈り)
神さま、罪人である私をゆるしてください。