〔あなたのもとに王はいないのか〕
2014年12月10日(水)
人生におけるさまざまな体験ではなく、十字架の体験こそが、罪の告白の聞き手を造るのである。最も深い人生経験を持つ人間通より、イエスの十字架のもとに生きる最も単純なキリスト者の方が、理解するところははるかに多いのである。
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私がキリスト者の兄弟の前に歩み出る時、彼は<自分の前に私のような罪人、すなわち罪を告白したいと願い、神の許しを切望している神なき人間がいる>ということを認識する。
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兄弟は、裁きと憐れみを与える神の前で、私を見るのである。もしわれわれの心が貧しく、兄弟の罪の告白を聞いても何の役にも立たないとするなら、それは心理学的知識の不足ではなくて、イエス・キリストに対する愛の不足である。しかしキリスト者は、キリストの十字架に日ごとに真剣に関わることによって、人間的に他者を裁こうとする気持ちや、他者を必要以上に大目に見るような態度を、捨て去ることができる。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、606ff。
イエスさまへの愛が不足しているので、兄弟の言葉を理解することができないのです。
(祈り)
神さま、どうかあなたへの愛を増してください。そうして兄弟の言葉を理解することができるようにしてください。