〔あなたのもとに王はいないのか〕
2014年12月3日(水)
「互いに罪を告白し合いなさい。」(ヤコブ5章16節)
自分の悪に自分ひとりで関わる者は、完全に孤立した者である。キリスト者は、交わりにおいて多くの部分を共有しているはずであるが、それにもかかわらずひとりで孤立しているということがありうる。それは、キリスト者が交わりの中で、信仰者としての、敬虔な者としての交わりは持つが、しかし敬虔でない者、罪人としての交わりは持たないということによってである。
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あなたは、あたかも罪がないかのように、自分自身をあなたの兄弟とを欺く必要はもはやない。あなたは罪人として存在することを許されているのだ。神に感謝せよ。神は罪を憎むが、罪人を愛する方なのである。
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あらゆる見かけだけの事柄は、キリストの前ではもはや終りとなった。罪人の悲惨さと神の憐れみ、―これがイエス・キリストによってもたらされた福音の真理であった。この真理においてこそ、キリストの共同体は活動を開始することができたのであった。だからこそキリストは、弟子たちに、「罪の告白を聞き、キリストの名によってその罪を許す権威」を授けたのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、597f。
ありのままの自分というのは、良い部分と悪い部分を持ち合わせた自分ということです。そのありのままの自分でいられるところ、それが教会の交わりです。
もちろん悔い改め、懺悔をもって神さまの前に出る必要がありますが、そこで告白される罪を隠す必要はなくなったのです。
安心して、ありのままの自分でいられるところ、それが教会であるはずです。
そば近くにいてくださるイエスさまにゆだねて生きることができるのです。
自分の力で自分を変えることはできないのですが、全能であり罪赦すことのできるお方のイエスさまがそば近くにいてくださり私を変えてくださるのです。
(祈り)
神さま、ありのままの自分でいる場所をあなたのところに見いだすことができました。感謝します。罪人である私を聖めてください。