〔キリスト―われわれの生〕
2014年12月1日(月)
「とこしえの喜びが頭を覆う。」(イザヤ書35章10節)
われわれが勇気と喜びによって支えられないで、どうして喜びを失い無気力な状態におちいっている人々を助けることができるのであろうか。
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喜びは神のもとにあり、神のもとからやって来て、われわれの魂や精神や身体をしっかりと捕えるのである。そしてこの神の喜びが人間をしっかり捕える時、その喜びはさらに周囲に広がり、人々の心を占めるようになり、また閉ざされた扉を勢いよく開けることになるのである。
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神の喜びは、飼い葉おけの貧しさや十字架の苦しみを通してもたらされたものであり、それゆえにこそ、何も越えることのできない確固としたものなのである。
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われわれは、自分をキリストと取り違えないように注意しなければならない。キリストこそが、人間のすべての苦悩や、すべての罪を完全に引き受けたのである。それだからこそ、キリストはキリストなのである。
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われわれは、自分が全世界の苦悩を負うようにという使命を受けているわけではない。自分の力で苦しみを担おうとすれば、われわれはそれに失敗し、あきらめにおちいってしまうに違いない。われわれは、ただ、喜びにあふれて、われわれの現実を引き受けしかもその上で救い主となった方を仰ぎ見るという使命を負っているだけである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、593f。
喜びがあるかないかは、重要なことです。
喜びは神さまからやってきます。
十字架と復活をもって私たちの罪を赦しあがなってくださったイエスさまから、喜びはやってきます。
その喜びを確かにして、ただ救い主であるイエスさまを仰ぎ見ましょう。
そうして喜びに満たしていただきましょう。
その喜びは、周囲に広がり、人々の心を占め、閉ざされた心を開くでしょう。
(祈り)
神さま、あなたをきょうも仰ぎ見させてください。そうして変わることのない喜びに満たして下さい。