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自分には何も残っていなくても、イエスの言葉が残っている

〔キリストの裁きの座の前で〕

2014年11月24日(月)

「わたしたちは、あなたの名によって多くの力あるわざを行なったではありませんか。」
(マタイ7章22~23節)

イエスがここで弟子たちに明らかにしていることは、悪魔的な信仰の可能性である。・・・これを同様のことを、パウロはコリント人への第一の手紙13章で語っている。

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一体誰が残り、誰が残らないのか。この問いに対していは、イエスが最後に罰を与えるべき者に語った言葉、すなわち「あなたがたを全く知らない」という言葉が、決定的なことを語っている。われわれがイエスに知られているか、知られていないかということが最大の問題なのである。

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イエスの言葉が彼の共同体をこの世から選別し、さらに、終りの日の共同体の中でも選別を行なうということ、そしてその際にもはやわれわれの信仰告白も、従順も、何も引き合いに出すことはできないということを聞く時、われわれは一体何に依り頼めばよいのであろうか。しかしそれでも、われわれに残されているのは、まさに「わたしはあなたを知っている」というイエスの言葉だけなのである。これこそイエスの永遠の言葉であり、永遠の招きである。服従においてこのイエスの言葉以外のものに決して頼らず、この言葉以外のものに固着しない者、この言葉以外のものをすべて放棄する者を、最後の審判の間にも、この言葉そのものが支え続けてくれるであろう。イエスの言葉は、イエスの恵みなのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、577ff。

詐欺の審判の時に、私たちを支えるのは、私たちの何か、すなわち私たちの行いや信仰告白ではなく、ただイエスさまに知られているということである、とボンヘッファーは語ります。

最後の審判の時がそうであるならば、最後の審判に向かう今日や明日、日々の生活を支えることもまた、このイエスさまのことばに支えられているということでしょう。

私が何をしたがではなく、ただ、イエスさまに知られている、ということが私を支え、私の日々の信仰生活を支えるのです。

それ以外のものに頼り出す時、私たちの人生は砂上の楼閣となります。しかしこの言葉だけに頼る時、あるいは最後に残るのがこの言葉であるならば、私たちの人生は岩の上に建てられた家のように揺るぐことのない平安に満たされます。

(祈り)
神さま、ただ一方的なあなたの愛によって、あなたに知られている者にしてくださったことを感謝します。。


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