〔キリストの裁きの座の前で〕
2014年11月20日(木)
「命にいたる道は細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
(マタイ7章13~14節)服従する者たちの道は細い。
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この道を行くことを命令されていると自分で考え、自分を恐れながらその道の上を歩もうとする限り、この道を実際に歩むことは不可能である。しかし、イエス・キリストが一歩また一歩と私に先立って歩んで行くのを見、しかも彼だけを見て、自分も一歩また一歩と歩んで行くならば、私はこの道の上で守られるであろう。
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イエス・キリストみずからが、まさに、「道」そのものなのである。
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その道の細いことこそが、われわれにとっては確かさとなるであろう。地上における神の子の道が、われわれもまた、二つの世界に属する市民として、この世と天の国との間の境界を歩む時に通らなければならない道である以上、どうしてそれが広い道であるはずがあろうか。正しい道は、細い道でなければならないのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、571f。
キリスト者は、この世と天国との間にある細い道を歩む者です。歩む道が細いのは、それが境界線だからです。
どちらか一方のみに歩むことは、魅力的であり、またたやすいことのようですが、それはこの細い道から外れてしまう生き方です。
その細い道から外れてしまう生き方は、私たち自身に喜びをもたらすものではありませんし、この世界にあっても益とはならない生き方でしょう。
山の尾根を歩くために、足元を見ているだけではふらついてしまい、いつかは、この世か天国かに落ちてしまうでしょう。ただ前を歩んでいてくださるイエスさまご自身に、そして「わたしが道である」と言ってくださったイエスさまご自身に焦点を当てて進む時、この細い道、そして深い喜びの道を歩ませていただけるのです。
きょうもイエスさまに焦点を当てて歩みましょう。
(祈り)
神さま、きょうもイエスさまに焦点を当てて歩ませてください。