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重荷を負うこと

〔互いに仕え合いなさい〕

2014年10月27日(月)

「互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」(ガラテヤ6:2)

第三に、他者の重荷を負うという奉仕について述べよう。キリスト者の、まさにキリスト者にとっての「重荷」は、兄弟姉妹である。
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彼らは決してわれわれが支配すべき対象ではないのである。
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キリスト者にとって、他者が「自由」を持つということが、第一の重荷となる。
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それぞれの人間が持つ自由の中には、われわれが「本質」、「個性」、「素質」という言葉を用いることによって考えているあらゆることがらが含まれるし、また、われわれの忍耐を強く要求するそれぞれの人間の弱さや、奇妙な振舞いも含まれる。そしてさらには、私と他者との間に摩擦や、対立や、衝突を生じさせるあらゆるものが、この自由に含まれているのである。ここで他者の重荷を負うということは、<他者もまた神によって造られた人間である>という現実に耐え、この現実を肯定し、この現実を忍び通して、それを喜ぶところにまで至るということである。
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他者が自由を持つということの次に、その自由を誤って用いさせる「罪」が、キリスト者の重荷となる。
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罪人をあなどらず、あえてその人の罪を負うということは、罪人を失われた者として見捨てないということ、その罪人を受け入れ、許しによって交わりを確認するということを意味する。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、532f。

聖書が、互いに重荷を負い合いなさい、と語るその重荷とは、兄弟姉妹の持つ自由とその自由の乱用である罪のことである、とボンヘッファーは語ります。

重荷を負い合いなさいと言われると、兄弟姉妹が担っている重たい荷物を、いっしょに担ってあげるというイメージでしたが、本来、その人が負わなければならない人生の重荷は、その人でなければ担えないものですし、またその人が担わなければ意味がないものです。あるいはいっしょに、時には代わりにになってしまうと、その人がその重荷を担うことによって神さまからいただかれるであろう祝福さえも奪ってしまうことになるでしょう。

ですから、やはりここで、互いに重荷を負い合いなさいと言うのは、兄弟姉妹の持つ自由とその濫用である罪のことと理解するのがいいのでしょう。

私が受け入れることのできない兄弟姉妹の自由と罪を、その兄弟姉妹も神さまによって造られた存在である、との信仰によって、共に生きようとすること。
それは、本当に難しいことですが、そうして初めて律法を全うするのである、と聖書は語ります。いくら戒律をきちんと守っていても、兄弟姉妹の自由と罪を担うことなく、かえって兄弟姉妹を支配、すなわちコントロールしようとしているならば、少しも兄弟姉妹の重荷を負っていることにならず、律法を全うしていないのです。

(祈り)
神さま、兄弟姉妹の重荷を負うことを学ばせてください。


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