〔私はあなたのさとしを求めて喜びをもって歩むことができます〕
2014年10月17日(金)
「神の戒め」は許しである。
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神の戒めは、人間を自分自身と、自分の行為に対する批判者、審判者にするのではなく、確かさと確信とをもって神の戒めを行なうために生き、行動することを人間に許すのである。人間のさまざまな行動の動機の純粋性を問う自虐的な希望のない問いや、自分に疑いの目を向ける自己観察、絶えずぎらぎらと輝き心身を消耗させる意識の光というものは、生きることと、行動することに自由を与える神の戒めとは何の関係もない。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、515f。
神さまは私たちに戒めを与えてくださいます。私たちはその神さまの御声に従って生きる者です。神さまの御声に従って、自分を愛するように隣人を愛して生きるのです。
神さまのお許しの中で、確信をもって、また平安をもって生き、行動するのです。
これに対して「動機の純粋性」を問いながら生き、行動するということがあります。隣人を愛するということにおいて、それ自体に善の意味を見いだし、それゆえに行動するということです。これは「自虐的な希望のない問い」に絶えずさらされての行動です。また「絶えずぎらぎらと輝き心身を消耗させる意識の光」にさらされているだけであって、神さまの戒めに生きることとは何の関係もありません。
そのような生き方は、一見信仰的な、また愛に豊かであるようですが、私たちを消耗させ、喜びも感謝もない人生となるでしょう。
私たちは、神さまの戒め、導きに従って、歩みます。
たとえそこに行動の動機の純粋性があったとしても、神さまの導きがないならば行動しません。逆に、行動の動機の純粋性が見えなくても、神さまの導きがあるならば行動するのです。
神さまは、私たちを愛し、私たちが、この世界の中にあって喜んで生きることを誰よりも願っていてくださいます。自己中心ではなく、世界と共に生きることを願っていてくださいます。
その御心を聞きつつ、神さまの戒めに従う自由に生きたいと思います。
(祈り)
神さま、あなたの戒めに生きる自由を感謝します。