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神の意志は謙虚な者に明らかにされる

〔私はあなたのさとしを求めて喜びをもって歩むことができます〕

2014年10月15日(水)

人間の直観的な思いつきを重んじたり、期待していはならない。なぜなら、それは容易に人を自己欺瞞へと導くからである。重要なことが問題となる場合には、高度の非陶酔的な精神が必要である。そして何が可能であり、それがどういう結果を生むのかということが、慎重に考えられなければならない。それゆえ、何が神の意志であるかということを知ろうとする場合には、人間の持つありとあらゆる能力が用いられなければならないのである。
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人間に、<神は、謙虚に問う者に対して、必ず意志を明らかにする>という信仰が与えられるであろう。そして、すべてをつくして真剣に神の意志を尋ね求めた後に、実際にある行為へと決断する自由が与えられ、その自由の中で、<人間ではなくて神自身が、真剣に尋ね求めようとする者に対して、神の意志を貫徹するのだ>という確信が与えられるであろう。それゆえ、自分のした行為が正しかったかどうかという不安のゆえに、絶望的に自分自身の正しさにしがみついたり、善悪についての知識の確かさを追い求めたりすることはもはや不要となるのである。そのような不安は、むしと、恵み深い裁きを行なう唯一の方であるイエス・キリストを知る知識によって克服されるのである。そして、自分のなした「善」は、適当な時が来るまで、裁き主の知識と恵みの中に隠されることになるであろう。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、512f。

神さまのみ心を知り、神さまのみ心を行なう、ということはどういうことなのでしょう。
直感的な思いつき、陶酔的な精神は、神さまのみ心を知りみ心行なうことにおいては、人間を逆の方向にいざなうのです。神さまの意志を知るためには、人間の持つありとあらゆる能力が用いられなければならないのです。

そうして謙虚に神さまに問いかける者に神さまは答えてくださいます。
そして神さまのみ心を行なうことにおいて、確信を与えてくださいます。
その確信において行なったことについては、それが本当に正しいことであったのかと振り返って不安になったり、絶望したりすることは、必要ありません。
適当な時が来るまで、イエスさまの知識と恵みのみ手の中に隠されるのです。

私たちは、すべてのことをイエスさまのみ手の中にゆだねることができるのです。

(祈り)
神さま、あなたのみ心を追い求める謙遜を与えてください。


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