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この「時」に対する神の戒め

〔私はあなたのさとしを求めて喜びをもって歩むことができます〕

2014年10月13日(月)

教会はこの「時」に対する神の戒めを、どこから知るのであろうか。
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創造と罪は互いにからみあっているので、人間の目にはもはやそれを切り離すことができなくなっているということ・・・
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キリストからのみ、われわれは、何をすべきかと知るのである。しかし、それは、今や、山上の説教を語る預言者としてのキリストからではなく、われわれに生命と許しを与える方、われわれに代わって神の戒めを成就する方、新しい世界をもたらし、約束をもたらす方としてのキリストからである。
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この世界のすべての秩序は、それらがなおキリストに対して開かれているかぎり、神の保持の下に存続するのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、509f。

聖書の教えと創造の秩序の中に生かされていますが、人間が罪人となって以来、それらは必ずしも神さまのみ心を啓示しているとは言えない状況の中に、私たちは生かされています。

罪人である私たちは、聖書の教えを律法主義の中で解釈してしまい、隣人を裁く道具にしてしまいました。

罪人である私たちは、創造の秩序を破壊してしまい、滅びに向かいものになってしまいました。

ただイエスさまだけが、私たちに、神さまのみ心を啓示してくださいます。
イエスさまは、十字架と復活によって、啓示してくださいました。
ゆるしと永遠のいのちを与えるお方が、共にいてくださいます。

(祈り)
神さま、ただあなたさまだけを見上げ、あなたさまから学び、生きる者にしてください。


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