〔自由〕
2014年10月11日(土)
教会の自由は、教会が自由の可能性を持つところに存在するのではなく、たとえ教会のこのような可能性が何ひとつ与えられていない時にも、いやまさにそのような時にこそ、福音がみずからの力によってこの地上に自由な空間を造り出すところに存在するのである。教会の本質的な自由とは、この世からの教会に対する贈り物なのではない。教会の自由とは、聞く者を造り出す神の言葉そのものの自由である。
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宣教の自由が犠牲にされることによって制度上の自由に対する感謝がなされているとするなら、教会はたとえ自分は自由だと信じていても、実際は鎖につながれているのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、504f。
教会が宗教法人格を持つためにいろいろと努力をしています。法人格を持つことによって、個人の資産と教会の資産が明確になり、諸問題への対応がしやすくなるからです。しかし法人格を持つためには、いろいろな手続きや、国への報告が必要となり、どこか国から与えられる自由のように感じることも多いのかもしれません。
もちろん、もともと日本は宗教の自由が与えられていますので、法人格の問題はまた別の問題だと思います。
教会の自由を脅かすものは、教会の外からやって来ることも多いと思いますが、今日、教会の中からやって来ることもあるのではないかと思います。
地方教会には、その教会独自の文化があります。歴史の中で生み出された文化であったり、そこに派遣された牧師や宣教師の造り出した文化であったり、さまざまです。
聖礼典(洗礼式、聖餐式)、教会歴、礼拝プログラム、倫理(アルコールや喫煙など)、世俗とも関係、他宗教との関係などなど。
聖書の言葉が語られる時に、その文化の中で、語られます。文化に合うように、文化が犯されないようにと語られます。
しかしその文化の範囲内で与えられている自由であるとするならば、それはこの世からの贈り物としての自由といえるでしょう。
福音は時にそのような文化を超えて、み言葉の自由の中に前進します。
牧師は、時にこの文化に反しても、聖書のみ言葉の真理を語らなければならない時があります。たとえそれによって教会を追われることとなっても、そこには真実の自由があります。
(祈り)
神さま、教会の文化を超えて、み言葉の真理を語ることができるように助けてください。また教会が文化を超えて、み言葉に従う群れに成長できますように。