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「戦争」は正当化されない

〔平和についての証言〕

2014年10月7日(火)

平和とは、絶対的な理想ではなく、破壊されるかもしれないこの世界における保持の秩序なのである。
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堕落した世界の中で、われわれは確かに、さまざまなものと戦わなければならない。しかしこのことは、「戦争」を正当化する理由とはならない。訴訟というものがいくら必要だからといって、それで拷問が正当化されるわけではないように、「戦うこと」がいくら必要だからといって、それで「戦争」が正当化されるわけではないのである。

われわれの今日の「戦争」は、もはや「戦う」という概念に含めることはできない。なぜなら、「戦争」は、戦う者の両方が確実にみずからを絶滅することになるからである。戦争はしたがって、今日においては、啓示に至る保持の秩序とは認められない。それは、戦争というものが、まさに絶滅させるものだからである。絶滅させる力は、内的人間の上にも、外的人間の上にも、同様に及んでいる。今日の戦争は、人間の魂と肉体とを絶滅させる。われわれは決して戦争を、神の保持の秩序として、したがって神の戒めとして認めることはできないし、また、一方では、戦争が存続しうるために、それが理想化され偶像化されることを必要としているので、今日の戦争、あるいは将来起こるかもしれない戦争は、教会によって全面的に拒否されなければならないのである。
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われわれは、確信をもって、神の平和に、究極の「平和の創造」をゆだねると同時に、われわれもまた、確信をもって、戦争を克服するために平和を創造すべきである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、496f。

ボンヘッファーは、ナチスの時代に投獄され処刑された牧師です。戦争の悲惨さ、非情さを誰よりもよく知った人です。そのボンヘッファーが「戦争は正当化されない」と語ります。
今日、戦争の悲惨さ、非情さを知らない時代にある者が、平和のために戦争が必要だ、などというのは全く無責任なことです。
かつて十字軍の時代に、教会は「これは神さまのみ心なのだ」と祈って戦いに行ったと伝えられます。今日も大国の都合によって、神さまの名前を利用して戦いがなされています。悲しいことです。

「戦争」はもはや「戦う」という概念に含めることができないとボンヘッファーは語ります。戦いは平和を築く場合があるが、戦争はただ破壊するだけ、絶滅するだけになるからだ、ということでしょう。

訴訟は必要かもしれませんが、拷問は平和を築くことにならない、ということですから、私たちの身近な人間関係の中で、相手の間違いや、置かれた状況の間違いを指摘することは大切なことですが、いきなり怒鳴ったり、脅迫したり、誰かを責め始めてはいけないということでしょう。

(祈り)
神さま、戦争を止ませてください。


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