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キリストのもとに排他的にとどまる者こそ自由になる

〔私たちに逆らわない者は、私たちの味方である〕

2014年10月6日(月)

「排他性」の要求だけでは、熱狂主義や、隷属主義になってしまう。「全体性」の要求だけでは、教会の世俗化や、自己放棄が引き起こされてしまう。われわれが、キリストをわれわれの主として、排他的に知り、告白すればするほど、彼の支配の及ぶ領域は、いよいよ広くわれわれに開示されるのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、494f。

中立的な立場が広さと自由を与えてくれるのかと思うとそうではなく、時に排他的に、また純粋に、信仰の立場を明確にするところに、むしろ広さと自由がある、ということでしょうか。

イエスさまの愛に真実に出会うならば、イエスさまを愛して生きていくかそうでないかの分かれ道に立たされます。そしてそのいずれかを選んで道を進んで行かなければなりません。
イエスさまの愛に応えて生きる道を選ぶことは、この世界から見れば、この世界に対して排他的な生き方に見えるかもしれません。しかしそうして生きることによってキリスト者は、この世界の中で真理を求めている人の、励ましとなり光となります。

(祈り)
神さま、あなたのみ心の道を歩ませてください。


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