〔私たちに逆らわない者は、私たちの味方である〕
2014年10月3日(金)
「善」というものを、ただ単に、福音への前段階であると考え、福音を自分勝手に歪曲しようとする試みに抗議して、今度は大きな情熱を持って、しかも以前と同じような危険性を持って、逆の方向へ福音が歪曲化されることになった。「善」を義とすることに代わって、「悪」を義とすることが平然となされるようになった。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、489f。
神さまの一方的な愛によって救われると聖書は語ります。私たち人間の行いによるのではないと語ります。
このことは宗教改革がなされることになった時代の教会において、強調されなければならない大切なメッセージだったのだと思います。しかしこの振り子は大きく揺れて逆の方向に行きすぎてしまったのではないか、と思える時代を迎えることになったようです。
救いの証しなかで、かつてどんなに悪行を成していたかということが縷々語られることがあります。それは本人の回心としてとても重要なことだと思います。
しかしそれを聞いた人はいろいろな感想を自由に持ちます。
たとえば、イエスさまがゆるして下さった罪のゆるし。その愛の大きさを知るためには、やはり誰の目にも明らかな大きな罪を犯さなければならないのだ、とか。
自分は神さまの愛の深さがまだまだわかっていない。それは罪のゆるしの大きさがわかっていないからだ。それがわからないのは、自分の犯した罪が小さすぎたのだ。もっと大きな罪を犯そう、とか。
これらはいずれも誤解であり、キリスト教信仰とは何の関わりもないものです。
真摯に善に生きようとする者は、たとえこの世界から見て些細な罪であったとしても、その罪を重大なこととして考えます。その重大な罪をゆるして下さった神さまの愛の大きさを知ることができます。
善に生きようとすることは、とても大切なことです。そして救いの道においてもとても大切なことです。
(祈り)
神さま、善に生きる道を教えてください。