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キリストと善人

〔私たちに逆らわない者は、私たちの味方である〕

2014年10月2日(木)

キリストは、人間がもはや、ただ単に「悪人」でも「善人」でもなくなり、「義とされ、聖とされた罪人」であるようにと、人間を根源へ呼び返そうとしているのである。
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<善人がキリストを見いだすということは何を意味するのか>という問い、あるいは、<イエス・キリストが善人ならびに善とどのようにかかわるのか>という問いを避けて通ってはならないのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、488f。

イエスさまは、公生涯において罪人や遊女たちを招き、共に食事をし、救いの道、すなわち神さまの国への道を開かれました。救いは人間の行いによるのではなく、神さまの一方的な愛、その愛があらわされたイエスさまの十字架と復活のあがないのみわざによります。私たちはそのイエスさまを信じるだけで、救いの道に生きることができます。
しかしこれは、善人でなくてもよい、ということを言っているのではありません。
悪を犯していても大丈夫などということを言っているのではありません。

罪人はもちろんですが、善人と見える人も、神さまの前ではすべて罪人なのです。
その罪人は、信仰によって、義とされ聖とされた罪人としていただいたのです。
そのありがたさが分かれば分かるほど、罪人のままで大丈夫などといういうことを言ってはいられないのです。
このイエスさまを愛してイエスさまの喜ばれる道を選択していくはずです。

イエスさまの喜ばれることなど後回しにして、あるいは考えもせず、このままで大丈夫だ、などといって開き直っているのは、イエスさまの愛をわかっていないだけです。
それは信仰がないのと同じでしょう。信仰がないということは救われていないということと同じです。

主にあるものは、真の善人として生きる道を求めていくべきです。

(祈り)
神さま、あなたの喜ばれる道を歩ませてください。


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