〔私たちに逆らわない者は、私たちの味方である〕
2014年10月1日(水)
「理性」、「文明」、「人間性」、「寛容」、「独自性」-これらの概念は、すべて、つい最近までは、教会に対する、あるいはキリスト教に対する、あるいはまた、イエス・キリスト自身に対する戦いのスローガンとして用いられてきたものであったが、それらが今や、急速に、キリスト教の領域に近いものとなったのである。
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自分の足だけで立ち、歩むべき道を踏みはずした教会の「子供たち」が、この困難な時代の中で、再び「母」のもとに帰ったのである。
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イエス・キリストこそ、聖書と、教会と、神学の中心であり、力である。しかもイエス・キリストは、同時に、人間性、理性、正義、文明の中心でもあり、力でもある。
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すべての者は、ただイエス・キリストに守られることによってのみ、生きることができるのである。最近の危機的な状況の中で、反キリストの手中に陥ることを願わない者は、すべて、無意識にキリストに隠れ場を求めようとしているように思われる。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、486ff。
「人間のうちにある血と、本能と、獣性の神格化」に対しては「理性」。
「野蛮」に対しては「文明」と「人間性」。
「暴力」に対しては「自由」と「寛容」と「人間の権利」。
「科学や芸術などが政治的に利用されること」に対しては「それぞれが『独自の領域』を持つと指示すること」。
この世の善である思想は、もともとは教会から生まれたものでしたが、いつのまにか教会に敵対するもののようになっていました。しかし患難の時代を迎えると、これらが教会のもとに帰ってくるのです。
神さまが唯一であり、この世界の主であるならば、これは当然のことなのかもしれません。
(祈り)
神さま、この世界の中にあって、生きるキリスト者とならせてください。