〔あらゆることを主のみこころどおり行ないなさい〕
2014年9月23日(火)
キリスト者の祈りは、彼に祈るように定められている時間を越えて、労働の時間のただ中にまで入っていくのである。
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キリスト者のあらゆる言葉、あらゆるわざ、あらゆる労働が、祈りとなるのである。それは、自分の前に置かれている課題から絶えず目をそらしてしまうという非現実的な意味においてではなく、激しい「それの世界」が突破され、恵み深い「あなた」にまで至るということが実際に起こることによってである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、470f。
労働によって祈りの時間が妨げられてはいけないけれども、労働そのものが祈りとなるということ。この世にあって、あらゆる言葉、あらゆるわざが、祈りとなるということ。それがキリスト者の信仰生活であるといいます。
祈りと労働が、別々のものとなっていることは、やはり問題なのです。
教会生活と日常生活が別々のものになっているのは問題なのです。
この別々のものになっているところに、私たちの人生そのものの問題があるのです。
(祈り)
神さま、生活のあらゆる場面において、祈りとなる歩ができますように。