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他者の罪は赦すが、自分の罪を赦してはならない

〔一つの体―お互いはその部分〕

2014年9月20日(土)

自分を賢いとみなさないこと、低い者たちと交わるということは、自分自身を「最大の罪人」とみなすことである。
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<私の罪は他者の罪より軽い>とか、あるいは<私の罪は、他者の罪より非難されるべき度合いが少ない>というように考えるなら、それは私がまだ自分の罪というものを本当には認識していないからである。
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交わりの中で兄弟に仕えようと思う者は、この謙遜の深みへと降りて行かなければならない。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、464f。

自分が罪人であるということは分かるのだけれど、他の人と比べて罪人のかしら、つまり一番の罪人であるということを受け入れるのは簡単なことではありません。しかしこの「謙遜の深み」へと降りて行かない限り、隣人を愛し隣人に仕えることはできないのです。またイエスさまの愛を本当に知ることはできないのです。

自分はあの人よりはましである、とか、自分はなかなか良くやっている、それに比べてあの人は何て罪人なのだろう、などと思っているうちは、隣人を愛することはできないのです。

(祈り)
神さま、自らが罪人のかしらであることを教えてください。


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