〔一つの体―お互いはその部分〕
2014年9月18日(木)
仕えることを学ぼうとする者は、まず第一に自分自身を「とるに足りない者」とみなすことを学ばなければならない。
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ただイエス・キリストによって自分の罪を許されて生きる者だけが、自分を「とるに足りない者」と正直にみなし、キリストが彼を許してくれる時に、彼の賢さはもはや通用しないということを知ることになるであろう。
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最初の人間は、何が善であり、何が悪であるかを知ろうとし、その賢さのゆえに罪に落ちたのである。そしてその結果この地上で最初に生まれた者は、兄弟殺しのカインであったのである。これこそが、まさに、人間の賢さのもたらした結果である。
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キリスト者はもはや自分を賢い者であると考えることはできないので、自分の計画や意図を小さいものと考え、また自分の意志が隣人との出会いの中でくじかれることをよいことであると考えるであろう。
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自分の意志を貫くよりも、隣人に仕えることのほうが、さらによいことではないか。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、462f。
自分の賢さに寄りすがり、自分の意志を貫くことが、よいことのように、この世は私たちに思わせます。しかし、自分の賢さに寄りすがった最初に人アダムは、罪に陥り、その子カインは兄弟殺しとなりました。
自分の中からは何も得られないことを知ること。自分が取るに足りない者であることを知ること。そうして相手を自分よりも賢いと思うこと。
そうして健やかな交わりが生まれ、健やかな自分に生きることができるのです。
(祈り)
神さま、相手を自分よりも優れた者と思うことができますように。