〔一つの体―お互いはその部分〕
2014年9月17日(水)
強さや弱さ、賢さや愚かさ、才能の有無、敬虔や不敬虔などのような個々の人間のあらゆる相違は、真の交わりにおいて、決して、議論や、非難や、裁きを生み出すものではなく、それゆえにまた自己義認を生み出すものでもない。それらの相違はむしろ、お互いに喜びをもたらし、お互いに仕え合うことをもたらすものである。
交わりに属する一人一人のメンバーは、その交わりの中である定まった場所を占めるようになる。その場所とは、一人一人の人間が最も効果的に自己主張することができる場所ではなく、最もよく奉仕をすることのできる場所である。キリスト者の交わりにおいては、<各個人がひとつの鎖の欠けてはならない環であるかどうか>ということにすべてがかかっている。一番小さな環がしっかりと鎖全体に組み合わさっている時に、鎖は切れないのである。
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キリスト者の交わりに属する者は、弱い者が強い者を必要とするだけではなく、強い者も弱い者なしには存在しえないということを知らなければならない。弱い者を排除することは、その交わりに死をもたらすことを意味する。生活の中でひとたび神の憐れみを経験した者は、その後の歩みにおいても、引き続き、仕えることだけを志すであろう。審判者の座る高い椅子は、もはや彼を誘惑しない。彼はむしを、低きに下り、みじめな者や取るに足りない者のもとに存在し続けるであろう。なぜなら低いところにおいてこそ、神が彼を見いだしてくれるのだからである。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、460f。
強い者、弱い者。何をもって強いというのか。また弱いというのか。それは少し難しいことではないかと思います。
いずれにせよ自分と違う存在をどのように受け入れていくのか、は大切な問題です。お互いになくてはならない大切な存在であるということが確認されなければならないのだと思います。
そのために、それぞれが存在している目的が、それぞれの自己主張にあるのではなく、それぞれが仕えるためにあるということが、大切です。
そうして結果的にお互いが生かされ、お互いに居心地の良い交わりが築かれるのでしょう。
そこには、神さまに見いだされる低き者の群れがあります。
(祈り)
神さま、交わりを祝福してください。