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喜びの源泉

〔一つの体―お互いはその部分〕

2014年9月16日(火)

他者に対する陰口は、たとえそれがその人を助けるために好意から出た言葉のように見えるものであっても、やはり禁じられるべきである。なぜなら、他者を傷つけようと思う時に、このような口実のもとに、兄弟に対する憎しみを正当化してしまうおそれがあるからである。
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神は、私が他者に対してこうであってほしいと望むその願いどおりに、他者を創造したのではないのである。まさにそれゆえにこそ、今まで私が重荷や迷惑に感じていた他者が、今や、神の創造の自由の中で、私にとっての喜びの源泉となるのである。
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神は、私が自分にとってよいように思える「かたち」、つまり「私自身のかたち」に従って他者を形づくることを望まず、むしろ私から離れた神の自由の中で、「神のかたち」に他者を造ったのである。「神のかたち」を他者の中にどのように見いだしたらよいのかということを、私は決して前もって知ることはできない。なぜなら、それはそのたびごとに全く新しく神の自由な創造によってのみ基礎づけられるものだからである。それは私にとって、奇妙な、およそ神らしくないものに見えるかもしれない。しかし神が、他者を自分の「み子のかたち」に、すなわち「十字架にかけられた方のかたち」に創造したのであり、この「かたち」は、私がそれを正しく認識するまでは、私にとって奇妙な、神らしくもないものであり続けるのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、459f。

陰口は、どんな理由があるのせよ、禁じられるべきことです。陰口は交わりを破壊するものです。
他者は神さまが創造されたものです。私が私の気に入るように創造したのではありません。他者に出会う時、驚きと戸惑いがあるのは当然のことなのです。しかし神さまが、十字架にかけられたイエスさまのかたちに創造されたのですから、そのようの認識することが正しい認識です。
他者に対して正しい認識をすることによって交わりは築かれていきます。

(祈り)
神さま、他者の中にあなたの創造のみわざを発見する者に、この私を導いてください。


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