〔私たちを試みに会わせないでください〕
2014年9月12日(金)
自殺は孤独のうちになされる行為であり、最終的な、しかも決定的な動機は常に隠されている。
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「生命を犠牲にする自由」と、「自殺による生命の乱用」との間の境界は、人間の目にはしばしば見分けることのできないものであり、したがって個々の行為がそのうちのどちらにあたるかという判断をするための一般的原則を作ることはできない。
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他者のために自分を犠牲にするというところ
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ただ自分の生命だけを義としようとする場合
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不信仰がその行為の究極の根拠となっていること
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<神は、挫折した生にも、再び意味と権利を与えることのできる方である>ということ、また、<生は、挫折を通してこそ、初めてその本来の充実に達することができるのだ>ということが、信じられていないボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、451f。
たとえ遺書があったとしても、自殺の最終的な、また決定的な動機は分からないのだと思います。
自殺と見える行為の問題は、不信仰にあるということです。死ぬことによって自分の生命だけを義としようとする行為は、不信仰なのです。こんな状況なら生きて行けない、生きていては申し訳ないなどと人間が勝手に判断するのですが、現に生きているのですから、それは神さまによって生かされているのであり、神さまがOKを出しておられるということです。神さまがOKを出しておられるのに、人間がだめだというのは何と差し出がましいことでしょうか。
神さまは挫折にも意味と権利を与え、挫折を通して生の充実を与えるお方です。
私たちは、どん底の事態の中にあっても、ただ神さまにお委ねしていればいいのです。
(祈り)
神さま、ただあなたにすべて委ねることできるように助けてください。