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死への自由

〔私たちを試みに会わせないでください〕

2014年9月11日(木)

人間は、死への自由を持っている。それゆえに、人間は、自分の肉体的生命をより高い善のために捧げることができる。死において自分の生命を犠牲にする自由なしには、神のための自由は存在せず、人間の生命は存在しないのである。
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死への自由と共に、人間には、生命を容易に誤って用いる力が与えられている。
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幸福な時や、成功を収めた時には、自分を正しいと見なすことができないのに、絶望に陥った時には自己を正当化しようとする人間がいる。
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自殺という事実に直面してわれわれを否応なく襲う恐怖にも似た感情は、<このような行為が非難されるべきである>ということ以上に、<生命の肯定がただ否定によってのみ示されるというこの行為の背後に、恐るべき孤独と、自由に対する誤解がある>という事実に、われわれの目を向けさせるのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、450f。

人間は、殺してはならない、という戒めを神さまからいただきました。ですから他人を殺してはいけませんが、自分自身も殺してはいけません。すなわち自殺はいけないのです。神さまからいただいた命を自分の勝手で絶ってしまってはいけないのです。

この自殺をしてしまうことができるということは、自分で自分の命を絶つという力、を人間はいただいてしまっているということです。

これは、恐ろしい自由なのですが、その自由によって自分の命を否定するということをしています。まるで自分の命の支配者のようにふるまっています。自分の命の支配者としてふるまうことによって、自己を正当化しようとしています。

しかしそれは、ただ恐るべき孤独の中にいるだけです。そして神さまが与えてくださった自由を誤解し乱用しているだけです。

神さまから与えられた命。与えられている自由を持って、神さまに捧げようとしないから、逆に殺さなければいられないような孤独と誤解に陥るのです。
神さまから与えられた命は、神さまに捧げて生きることによって、輝くのです。

(祈り)
神さま、与えられた命を、与えられた自由によって乱用することのないように守ってください。


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