〔愛は忍耐強く、情け深い〕
2014年8月28日(木)
愛は忍耐強く、情け深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない。いらだたない。悪事を数えたてない、不義を喜ばない、真実を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(第1コリント13:4-7)
われわれは確かに愛というものを知っているのであるが、この愛は、ただ鏡に写された愛、またゆがめられて虚像のようになった愛、すなわち「自己愛」に他ならない。
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この愛は、その根底に、神に対する憎悪、また兄弟に対する憎悪をもっている。なぜなら、神や兄弟が、自己愛の貫徹を邪魔することもあり得るからである。この自己愛と、本当の愛を比べるなら、両者とも、力や、情熱や、排他性を持っているという点では、同じである。しかし、無限に異なるのは、両者の目標で、ここでは「私自身」が、あそこでは「神」と「隣人」とが目標となっているのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、426頁f。
本当の愛とにせものの愛、すなわち自己愛の違いは、その目的の違いにある、といいます。
本当の愛は神さまと隣人とが目標となっています。それに対して、自己愛はどこまでも自分自身が目標となってしまっているのです。
いくら情熱的で、献身的で、力強い行動があったとしても、それが自分自身を目標とする自己愛であるならば、その根底には神さまと隣人に対する憎悪があり、決して良い実を結ばないのです。
どんなに小さな愛でも、それが神さまと隣人を目標とする真実な愛であるならば、良い実を結んでいきます。
(祈り)
神さま、あなたと隣人を目標とする真実の愛を教えてください。どうか自己愛を私のうちから取り除いてください。