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第一に「権利」、第二に「義務」

〔それぞれにはそれぞれの時がある〕

2014年8月26日(火)

キリスト教倫理においては、先ず第一に「権利」について述べられ、次に初めて「義務」について述べられる。
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このことは、<生に何が与えられているか>ということについてまず述べ、それから<生から何が求められているか>について述べるということを意味する。神は要求する前に、与える方なのである。
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この権利から、「義務」が生じる。
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まず「権利」について述べ、次に「義務」について述べることによって、われわれは自然的な生活においても、福音にしかるべき場所を与えることになるのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、423頁f。

神さまは、私たちが毎日を生きることができるために、あらゆるものを備え、与えていてくださいます。そのことを感謝したいと思います。
そしてその神さまの大きな愛に触れるとき、そこに人間として生きる義務を発見します。

権利を行使するために、その前提として義務を果たさなければならない、ということは、少なくとも聖書の語る信仰においては、間違いであるということです。
神さまは、神さまからの一方的な恵みによって、私たちに生きる権利を与えてくださいました。その恵みの大きさに触れる時、神さまへの義務、自分への義務、隣人への義務、世界への義務を果たす者となるのです。

(祈り)
神さま、あなたが与えていてくださる生きる権利を確かにさせてください。そうして義務に生きる者とならせてください。


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